荒川河岸

荒川は、奥秩父の甲武信岳を源として秩父盆地を通り、寄居町で秩父山地から関東平野へ流れています。

現在の流路は、1629年(江戸時代)に当時の関東郡代伊奈忠治が行っ久下村(熊谷)付近の瀬替え工事によりできたものです。

この瀬替えにより、江戸は水害から免れるようになり都市として発達するとともに、荒川の水量が増加し、船による年貢米や特産物などの大量輸送が可能となりました。
(荒川上流河川事務所パンフレット「荒川の水運」一部を転記)

高尾河岸は明治の中期頃まで確実に機能していました。(広報きたもと2016.8.1 NO.942)

北本・高尾河岸

江戸時代の高尾河岸周辺には複数の船問屋があり、船頭、馬頭、船大工、馬方、荷揚げ人など舟運に関わる人と達が住んでいました。

これらの人たちの生活を支えるため、大工、煙草屋、小間物屋、うどん屋、料理屋、旅館など70戸ほどの家があり、小さな町を形作っていました。そのような人々の衣食住の全てが高尾河岸周辺で事足りていました。

鴻巣に近かったことも高尾河岸が賑わった大きな要因で、鴻巣と江戸の店を行き来する荷物の量はかなりものでありました。高尾河岸は中山道と江戸の河岸をつなぐポイントだったのです。広報きたもと(北本市)2016年942より抜粋


◎平方河岸

・国交省ハザードマップに、昭和初年の平方河岸の街並み看板を参照して当時の商工業者の位置を書き添えました。
・2つの神社(橘神社、八枝神社)があります。神様は須佐之男命でありますが、元気で災害に強い神様と言われています。

・近くにある2つの神社が共に須佐之男命であることも偶然ではないように思われます。

・上尾市平方の開平橋の付近は古くから平方河岸があり、渡船・舟運の要衝として平方宿が形成され繁栄していました。

・明治になると殖産興業(明治時代の政策)を推し進め、酒造、味噌、養蚕、煉瓦製造、金融業等が昭和初期まで発展を遂げました。

平方河岸の遺産を活かす会

上尾市平方地区は、かつては平方河岸として江戸との舟運を支える重要な位置を占め、昭和初期まで大きな繁栄を誇っていました。
 しかし、鉄道や自動車が運送の主役となり、また、昭和30年の市町村合併で平方地区が上尾市の西端の一角となる中で、かつての活気は薄れ、人が行き交う姿もまばらな状況となってしまってきています。
 それでも近年、荒川沿いのサイクリングロードを利用したサイクリストが地区内や近隣の店舗を利用したり、「どろいんきょ」という地区の祭りが「奇祭」としてマスコミに取り上げられるなど、新たな風景を築く芽が出始めているように感じます。
 そこであらためて街中に目を戻すと、かつての平方の隆盛を伝える貴重な遺構がところどころに散在しています。
 私たちは、こうした貴重な遺産を次世代に伝えつつ、平方の新たなまちづくりの一つの糧となることを願って、「(仮称)平方河岸の遺産を活かす会」を発足しました。
転載許可済み(2023.1)