噴火リスク

 

 

〇怒る富士(新田次郎 文藝春秋)より

 宝永4年11月23日の午前10時ころであった。富士山の南東方向の八合目あたりから、真っ白な蹴鞠(けまり)のようなものが飛び出して空中をくるくると舞った。その白い蹴鞠は次第に大きくなり、数もまして、やがて雲となり、富士山の南東の空を覆った。 

 富士山は異変が起こると同時に震動鳴動が続いたので、富士山麗の住民たちは、富士山が崩れ落ちて来るに違いないといっておびえた。家を捨てて逃げ出す者もいた。夜になると凄まじい 光景が見られた。富士山は大火となり、約30mほどの火の玉「火山弾」が上空高く打ち上げられて、近くの山に落ちて、火の粉となって飛び散るありさまはただ恐ろしいぱかりであった。 

 約3メートルほどの太刀の形をした電光が互いに切りむすぶように見えた。雷鳴は耳を聾するばかりであった。障子戸は一晩中鳴り続けていた。富士山が一晩中噴火しているので、富士宮附近は夜になっても行灯を必要としなかった。 24日になると噴煙はいよいよ多くなった。富士山の東口登山道に当たる須走村に焼石が降って一村ことごとく焼けてしまったと聞いて吉田では大騒ぎになった。・・・・・・

須走の住民の命を助けたのが7代伊奈半左衛門忠順で須走に立派な伊奈神社が祀られています。社殿の左後方に雪のかぶった富士山が見えます。

 

〇首都直下地震:首都およびその周辺地域の直下に震源域を持つ地震には、M7クラスの地震と、フィリピン海プレートと北米プレートの境界で発生する海溝型のM8クラスの地震があります。首都直下地震モデル検討会においては、これらを総称して「首都直下地震」と呼んでいます。 

 陸域で発生する浅い地震の規模は、海溝付近で発生する巨大地震に比べて小さいことが多いですが、地震が発生する場所が浅いために直上では揺れが大きくなりやすく、そこに住宅地がある場合は、マグニチュード6~7程度でも大きな被害をもたらすことがあります。 

 なお、一般的に「直下型地震」は、都市部などの直下で発生する地震で、大きな被害をもたらすものを指すことが多いようですが、その発生メカニズムは多様であるため、特別の性質を持った地震の一種として定義される地震はありません。(気象庁ホームページより)

〇南海トラフの地震:周期はおおむね100年から150年という歴史があり、既に安政の地震から160年以上経過しており紀伊半島地方に地震が発生すると南海トラフとの地震の関係が心配されます。  

〇浅間山噴火(1783.8.5)

真昼にあんどんをつけた浅間山大噴火

天明3年(1783年)から7年にかけては、相次ぐ水害や全国的な冷害により、いわゆる「天明の大飢饉」となった。
この凶事の幕開きとなったのが、天明3年6月から7月にかけての浅間山大噴火で、埼玉県の各地にも深刻な被害をもたらした。

熊谷地方では7月6日夜から火山灰が降り出し、翌7日の昼頃には雨のように降り続き、そのため、太陽がさえぎられて真っ暗になった。
人々はしかたなく行灯を持ち出して、食事をとったと言われている。夜になると、今度は雷鳴と稲妻で真昼のような明るさになった。

降灰の量は熊谷附近で6~7斗/1坪(100リットル/畳2枚)と言われている。降灰にによる被害は農作物はもちろん樹木の立ち枯れ、折損が続出した。県北では硫黄の臭気などで農作物の収穫は皆無となった所も多かった。

一方、河川に対する被害も甚大なものとなった。利根川・烏川では、上州からの流出してきた材木や牛馬の死骸が一面に漂い、眼もあてられぬ有様となった。また、降り積もった火山灰が河床を上げ、噴出した溶岩が堰をつくり、各所に洪水が発生した。

県北部の水田を潤す備前渠用水(伊奈関東郡代)は利根川の逆水に苦しめられ、従来の取水口を閉鎖し湧水に頼らざるをえなかった。そのため水紛争が絶えなかった。本格的な復旧工事は浅間山の噴火から45年後であった。今も旧妻沼街道沿いの備前渠附近に復旧記念碑がある。

(郷土史事典 埼玉県 大村進、秋葉一男編より)

 

日光白根山

赤城山の裏、日光男体山の近くにあり、東日本地域では最高峰の山(2578m)です。
この姿はロープウェイで登ると見ることが出来ます。
常時観測火山です。